おおみち日記

感じたことを適当に書きます。真に受けてはなりません。たまに女言葉になりますが、おっさんですので要注意。

暴力教師

私の時代は――田舎の荒っぽい男子校だったけど、教師は手を出すのが当たり前だった。むろん、悪いことをしたときだが、ビンタはもちろん、ときには足蹴りにした。いじめなど問題のあった生徒は授業中でも何でも職員室に呼び出され、顔中ボコボコにされることも珍しくなかった。保護者は何も言わなかった。

いつからか反転して暴力は禁止され――それはそうだろうけど、行きすぎて真ん中を通り越して逆に傾きおかしくなった。なぜかというと、日○組というものがございまして…。ゴホン。ともかく、そういう時代だが、中には保護者の方から、(生徒が悪いことをしたら)殴ってくださいという学校もある。

人に手を上げるのは本当にむずかしい。タイミングを間違うと恨みを買ってしまう。だからといってNGだと、つけあがる子どももいて手に負えなくなる。ぶっとばすにしても、教師だって人間だから常に適切とは限らない。幅を持って見るべきだが、いちいち審問に掛けられるとしたら、実質変わらないだろう。

一方で、感情に任せてビンタされ、鼓膜を破られたのではたまらない。殴ってもいい事例を上げて、グーは駄目だとかマニュアル化するしかないかも知れないが、それも馬鹿らしい。対応できるとは思えない。

小さな問題のうちに、その場その場でエネルギーを掛けて双方納得すべきだが、実際はそんな暇はないだろう。しかし、思いを溜めていたら、最後には爆発して大事になるのはわかりきっているのだから、都度ちゃんとしておきたい。まあでも、そういうふうに暮らしていないとできないし、そういうふうに暮らしている人なんてそうはいませんけどね。

教師と生徒に限らず、人間関係なんて良好どころか問題だらけなのが普通だ。完璧でない人間に完璧を求めるのもおかしい。どうでもいいわけではないけども。結局、お前が、と外に指先を向けているのがいけない。ベクトルを逆転させ、内に向けて原因を知り、小さなうちに摘み取ることが肝要、なんだけども、そんな周到な人間なんて見当たらない。つまり、問題は常に起きるし、思うように行かないのがこの世なのだから、実地で慎重に対処するしかない。

と思うのよ。

二元の概念

著名人のコラムなどを読んでも、何らかの概念の上に成り立っていることが多く、不自由な話しだなあと思うことがよくある。わかりにくいかもしれないけど、そもそも概念なんてないんだから。

例えば、金持ちでなくてはならないという概念を受け入れた瞬間、自分を見失い、左右(金持ち・貧乏)という枠の中でのたうち回ることになる。自分に能力がないとか環境や運が悪いとかではなく、自分がその概念を受け入れたからだ。

金は必要だけども、その多寡を競う人生なんてつまらない。むろん、その才能があり、結果も出しているというならいいのだ。稼いでいるということは、それだけ人の役に立っているんですからね。しかし、みなそうではないし、本当はよいとされる側にいても真に自由かというとそうでもない。常にそうでなくなる可能性を抱え込んでいる。

金があるかどうかだけではなく、たとえば、イケメンでなくてはならない(イケメン・ブサメン)だとか、スタイル(痩・太)など見かけに関するもの、幸・不幸、健康・病気、善・悪、勝ち組・負け組など、こうでなくてはならない、こういうのがよいと受け入れた瞬間、そうでないものは悪いというものを作り出す。むろん、グレーゾーンもあるんだけども。

自分がよい、あるいは優れているとされる側にいる、うまくいっているうちはいいが、そこから外れると、外れていると、なんとかそっち側になろうとあらゆる努力をして、そうなれなければ、あるいははじめから断念して、苦しむことになる。

よいとされる側の人は、そうでない者を下に見、そうでない者は自らを卑下して駄目なのだと思い込む。極端には自死する人さえいる。そんなことをもたらしかねない概念などいらない。自分自身を発揮するだけでいいのだ(と思うのよ)。それが出来ないと思うのは、まだ何らかの概念を持っている証左である。

要するに自分自身からのずれが不自由をもたらすのであって、二元の概念は自分を惑わす最たるものというわけだ。

悩み相談にて、お坊さんの話し

昨日でしたか、某番組の悩み相談コーナーで――悩みそのものは端折るけども、面白かったのは、その中でお坊さんが言っていた、

「お釈迦様に悪意をもって言葉を発する人がいたが、お釈迦様はまったく気にとめなかった。逆に「頭にこないのか」と聞いたところ、例えで、「出した料理を食べずに客が帰ったとする。その料理は誰のものか? 出した本人のものであろう」(言葉は正確ではありませんが、そんなようなこと)

つまり、ここでいう料理とは悪意のことで、料理を出された客(悪意の向け先)がそれ(悪意)を受け取らなければ、悪意はそのまま出した人に返る、というのです。ちなみに同席していた精神科医(だと思うのだけども)の答えは、不機嫌を演ずるというようなことでしたが、対処療法的にはそれでいいかもしれない。

いじわるをする同僚に安易に同調しないということだけど、ワタクシ的には、会社は仕事をする場であって、仲良しクラブじゃないんだから仕事さえキチンとすれば、積極的に仲良くしようなどと思うことはないんじゃなかろうかと。

むろん、積極的に嫌うこともないが、人間関係が会社内だけだとつらいから、外に求めてバランスをとったらどうかしらんと思ったのだけども、それはともかく、精神医学も科学でありましょうから、お坊さんの言うような「発したものが返ってくる」ことを証明するのは難しいと思われる。

科学的なアプローチというのは、目の前の不都合な現象や症状をいかに取り去るか、あるいは思い通りにするかといったことが目的というか、重点がおかれていて(それはそれで役に立つとしても)、意味にまで踏み込めないでいるような気がする。意味などないというかもしれないが、それは虚しい。意味とは、そうしたらそうなるという当たり前のことといってもいい。というわけで、宗教の教えに触れるのも一興と感じた次第であります。