おおみち日記

感じたことを適当に書きます。真に受けてはなりません。たまに女言葉になりますが、おっさんですので要注意。

いろいろな人がいて、中には神経に障る人も

いるのだけれど、放置というか、なぜこんなことで不愉快になるのかわかろうとしないでいるとネガティブな思いが蓄積して、そのうち口が出、手が出ることになる。あるいはストレスで体を壊すかもしれない。誰もそんなことは望んでいないはずで、そうならないためには小さな芽のうちに摘んでおくべきなんだけども、これがなかなか難しい。

まず自分が原因を作っていることに気が付かない。自分が何をしているのか分からないということだ。これは私も含めてみなそう(そういうもの)なので批判ではない。もし、自分が何をしているのか100%把握しているなら、思いも寄らぬ出来事など起きないはずだが、実際には自分だけでなく世の中を見渡してみれば、何故こんなことにと悲嘆にくれるようなことが頻繁に起きている。ちなみに、いや、ないですけど、という人はまだ起きていないだけである。

許すことが基本だとは思う。しかし、感情的になっているさなか、深呼吸をして冷静にと思ってみても、頭の中で、上から目線で「許す許す」と繰り返してみても、あるいはマインドフルネスだといっても、せいぜいそのときだけで、また別の場所や時間に同じことをされてカチンとくるのは目に見えている。根本的な解決にはならないということだ。問題の原因を他人に求めると容易に泥沼化するので、なぜ癇に障るのか自分の内部を探索して原因を突き止めるしかない(と思う)。

当たり前になりすぎて、それがマイルールだと気付かないまま、他人にもそのマイルールを押しつけていると、平気でそのルールを破る他人にイラッとすることになる。他人が何を言おうが何をしようが、関係ない限りは放っておけばいい。他人が自らそうしていた結果どうなっても、もちろん自分に責任はないからだ。

関わる必要がなく、うるさいだけならヘッドフォンをして音楽をかけたり何かに集中することで気にならなくなるが、家庭や会社では、そうもいかない。ひとつの手段だけども、避けようとすると返って気になって仕方がなくなるので、逆に相手に注目してみる手がある。大したことは言っていないし、してもいない。ああそう、と受け流すことが出来るようになるかもしれない。

しかし、それでは足らない。気になって仕方がないのは、それが自分のことだからだ。確かに自分はその他人のようなことはしないかもしれない。だが、注意深く観察すると、レベルは違えど似たようなことを自分がしていたり、思っていたり、同じような根性を持っていることが見えてくる。これは素直にならないと見えない。そんなわけがないと強烈な自我が邪魔をして、受け入れ拒否するからだ。

わかろうとしなければわからない。たとえ1万年生きてもわからない。進歩がない。楽しいことからわかろうとすることは、ほとんどないが、つらいからこそわかろうとするのだから、つらいことが悪いばかりではない。また、進歩がないということはずっと不自由なままだということでもある。自分を知るための他人である。他人がいなければわかりようがない。

要するに何事も人のせいにしてはならないのであって――なぜなら、その場から離れるなどして解決したように見えても、なぜかまた似たような人物が目の前に現れて悩まされることがあるが、自分の中に原因があるからまたぞろ出てくるのだ。それを突き止めて潰すというか、理解するといいたいが、そうしない限り、ずっと煩わされることになる。他人と戦っても逃げても(一時的には必要なこともあるけど)本当の解決にならないどころか、複雑化するだけなのである。

などということを、宮崎6遺体のニュースを見て思ったんですけどね。興味本位で犯人捜しをしたり、他人事にしていては駄目で、何の原因もなくあのようなことは起きないのだから、事件は事件として、自分に返してみて、自分が何をしているのか、そうしていたらどうなるのか、しなかったらどうなるのかをわかろうとすることが自分のためという結論。わかれば、なんだそういうことかと楽になるというか、安心するものですし。あ、自分が良いとか悪いではなく、原因の話でありました。