おおみち日記

感じたことを適当に書きます。真に受けてはなりません。たまに女言葉になりますが、おっさんですので要注意。

ちょいと病気がございまして、

みながフツーに出来ることが出来ないことが多く、いい歳をしてそういうフツーのことはあまり経験していない代わりに、フツーの人が経験しないようなことを経験しているのですけれども、問題は一般的な価値観を真に受けると精神的に参ってしまって――求められることが出来ないがゆえ、苦しむことになるわけです。

寝たきりというわけでもないので、パソコンを触ったり、たまには外に出て過ごすこともあるのですが、歳を重ねるごとに心苦しく思うのは、親も歳をとって白髪となり、体もいうことが出てきて、それでもあらゆる生活のことをしてくれていることです。

自分でなんとかすべきだし、先のことを考えると不安になりますが、何もしないわけにはいかない。まだ生きていますからね。同じ病名がついても、社会に出て働いている元気な人もいます。ひとりひとり病状は異なりますし、環境も、あるいは年齢や性格、体力も、あるいはお金の多寡もあるので、同じようには参りません。

だがしかし。これから社会に躍り出んとする若者のように、何でも出来る可能性はない分、世界が限られていますから出来ることも限られている、ということは道がたくさんありすぎて悩む必要がない。明白な才能があって子どもの頃から取り組んでいる人は別かもしれませんが。

私の場合、探さずともある程度、決まってきます。ぜんぜん結果はともなっていませんが、いま取り組んでいることをやっていくしかないだろうと。それでもフツーに外に出て働くべきだろうかという迷いは常にあります。自分には無理だろうと思うのと同時に、為せばなるではありませんが意外と容易に出来るかもと夢想したり――勝手に出来ないと思い込んでいるだけではないかなど、まあ、そういう間で揺れ動いているわけです。

ともかく、特段の変化がない限りは、よろめきながらやっていくつもりであります。という、宣言でした。毎日のように、自分に言い聞かせているのですが、たどり着けるかどうかは別にして、こっち、と決めないと迷うばかりで何も出来ませんからね。

 

いろいろな人がいて、中には神経に障る人も

いるのだけれど、放置というか、なぜこんなことで不愉快になるのかわかろうとしないでいるとネガティブな思いが蓄積して、そのうち口が出、手が出ることになる。あるいはストレスで体を壊すかもしれない。誰もそんなことは望んでいないはずで、そうならないためには小さな芽のうちに摘んでおくべきなんだけども、これがなかなか難しい。

まず自分が原因を作っていることに気が付かない。自分が何をしているのか分からないということだ。これは私も含めてみなそう(そういうもの)なので批判ではない。もし、自分が何をしているのか100%把握しているなら、思いも寄らぬ出来事など起きないはずだが、実際には自分だけでなく世の中を見渡してみれば、何故こんなことにと悲嘆にくれるようなことが頻繁に起きている。ちなみに、いや、ないですけど、という人はまだ起きていないだけである。

許すことが基本だとは思う。しかし、感情的になっているさなか、深呼吸をして冷静にと思ってみても、頭の中で、上から目線で「許す許す」と繰り返してみても、あるいはマインドフルネスだといっても、せいぜいそのときだけで、また別の場所や時間に同じことをされてカチンとくるのは目に見えている。根本的な解決にはならないということだ。問題の原因を他人に求めると容易に泥沼化するので、なぜ癇に障るのか自分の内部を探索して原因を突き止めるしかない(と思う)。

当たり前になりすぎて、それがマイルールだと気付かないまま、他人にもそのマイルールを押しつけていると、平気でそのルールを破る他人にイラッとすることになる。他人が何を言おうが何をしようが、関係ない限りは放っておけばいい。他人が自らそうしていた結果どうなっても、もちろん自分に責任はないからだ。

関わる必要がなく、うるさいだけならヘッドフォンをして音楽をかけたり何かに集中することで気にならなくなるが、家庭や会社では、そうもいかない。ひとつの手段だけども、避けようとすると返って気になって仕方がなくなるので、逆に相手に注目してみる手がある。大したことは言っていないし、してもいない。ああそう、と受け流すことが出来るようになるかもしれない。

しかし、それでは足らない。気になって仕方がないのは、それが自分のことだからだ。確かに自分はその他人のようなことはしないかもしれない。だが、注意深く観察すると、レベルは違えど似たようなことを自分がしていたり、思っていたり、同じような根性を持っていることが見えてくる。これは素直にならないと見えない。そんなわけがないと強烈な自我が邪魔をして、受け入れ拒否するからだ。

わかろうとしなければわからない。たとえ1万年生きてもわからない。進歩がない。楽しいことからわかろうとすることは、ほとんどないが、つらいからこそわかろうとするのだから、つらいことが悪いばかりではない。また、進歩がないということはずっと不自由なままだということでもある。自分を知るための他人である。他人がいなければわかりようがない。

要するに何事も人のせいにしてはならないのであって――なぜなら、その場から離れるなどして解決したように見えても、なぜかまた似たような人物が目の前に現れて悩まされることがあるが、自分の中に原因があるからまたぞろ出てくるのだ。それを突き止めて潰すというか、理解するといいたいが、そうしない限り、ずっと煩わされることになる。他人と戦っても逃げても(一時的には必要なこともあるけど)本当の解決にならないどころか、複雑化するだけなのである。

などということを、宮崎6遺体のニュースを見て思ったんですけどね。興味本位で犯人捜しをしたり、他人事にしていては駄目で、何の原因もなくあのようなことは起きないのだから、事件は事件として、自分に返してみて、自分が何をしているのか、そうしていたらどうなるのか、しなかったらどうなるのかをわかろうとすることが自分のためという結論。わかれば、なんだそういうことかと楽になるというか、安心するものですし。あ、自分が良いとか悪いではなく、原因の話でありました。

そりゃ、つらいこともあるんだけども

だからといっていけないわけでもない。つらいの反対は楽しいだが、楽しくなくてはいけないと思い込んでいるとすると、それは余計につらい。自分の位置(概念)によってつらさを盛っているからである。

どういうことかというと――例えば、30センチの定規があるとする。左が0センチ、右が30センチだ。左を楽しいと仮定すると右はつらいとなる。楽しくなくてはいけないという概念は、左側に偏っていることになる。

0センチ(楽しい)にいると、つらい度が25センチのとき、そのまま25センチつらいが、偏りなく15センチ(真ん中)にいる人は、10センチのつらさだ。楽しいときは絶好調かもしれないが、人生、楽しいことばかりではないのだから真ん中がよい。

30センチ(つらい)の位置でもそうだけども、逆に振れたときおかしくなってしまいかねない。楽しみもつらさも人生に陰翳をもたらすものであって、楽しいからよくてつらいから悪いという単純なものではないから、あまり囚われないほうがいいと思うのよ。